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海の英雄,ヨハネス・クヌッセン フレデリクスハウンと日本との絆
駐デンマーク日本国大使 佐野利男
今から53年前,厳冬の2月,和歌山県沖で一人のデンマーク人機関長が日本人漁師を救おうとして命を落としました。彼の名はヨハネス・クヌッセン(当時39歳)。北ユトランドの美しい町,フレデリクスハウン市出身のデンマーク人青年でした。
1957年2月10日,神戸港を出港したエレン・マースク号は嵐の中,日本の中部で太平洋に面している和歌山県の沖を航行中,燃えさかる日本の漁船を発見します。風速20メートル以上の嵐の中で,マースク号の船員は必死に漁船の上で助けを求める漁民を救助しようとしました。しかし,嵐のため救命艇を思うように操作できず,マースク号も危うい状態となっていました。奇跡的に一人の漁師がなんとかマースク号の縄ばしごにたどりつくことができたのですが,あと少しのところで不運にも海に落ちてしまったのです。近くでその光景をみつめていたクヌッセン機関長はすぐに救命ベルトを締め,落ちた漁師を救おうと海に飛び込みました。彼は必死で助けようとしましたが荒れ狂う波の中でついに二人とも姿を消してしまいました。マースク号は直後にもう一度救命ボートを出しましたが,この救命ボートも強い波でエンジンが壊れ沈んでしまいました。
翌朝,クヌッセン機関長の遺体とマースク号の壊れた救命ボートが無惨にも日高町の田杭港周辺で発見されます。昨晩のクヌッセン機関長の勇気ある行動を聞き,集まっていた地元の人々は,「この方は,あの嵐の中で日本の船員さんを助けるために海に飛び込んだ方なのか。そんなことは到底人間のできることではない。この人は神様にちがいない。」と言って,流れる涙を拳でぬぐいながら跪き,その手はいつのまにか合掌に変わっていたと伝えられています。
その後,彼が漂着した日高町田杭地区には彼の魂を弔うために供養塔が建てられ,現在でも住民が交互に清掃し,お花が絶えることはありません。また,海を見晴らす美浜町日ノ岬の高台には,1957年に顕彰碑が,1962年にはクヌッセン機関長の胸像が建てられ,毎年の慰霊祭に加え,没後15周年,20周年として記念祭等も実施しています。
日本政府は彼の貢献を称えて勲章を贈った他,地元の学校ではクヌッセンさんの勇気ある行動が道徳の授業で教えられています。また,2002年日韓共催ワールドカップ開催時には,サッカーのデンマーク代表団が和歌山県でプレ・キャンプを行いました。最近では,2007年にクヌッセン氏没後50周年記念として和歌山県から代表団30名がフレデリクスハウン市を訪問し,フレデリクスハウン市に対してクヌッセン機関長の胸像のレプリカが寄贈され,この事業に併せてバングスボー博物館内に創設された「クヌッセン・コーナー」に設置されました。またこの時,2日間に渡って日本祭りも開催されました。
その後,フレデリクスハウン高校と和歌山県立日高高校の生徒同士がインターネットを利用して交流を始め,昨年 11 月4~7日には初めて実際に日高高校の生徒4名と先生2名がフレデリクスハウン市を訪問し,フレデリクスハウン高校の生徒宅にホームステイをしました。フレデリクスハウン高校も来年秋頃には日高高校への訪問を予定しており,両校は正式に姉妹校となる予定だそうです。
私は昨年の9月14日に駐デンマーク日本国大使として当地に着任致しましたが,着任前に和歌山県出身の二階俊博先生(衆議院議員)からフレデリクスハウン市と和歌山県の交流促進に是非とも尽力して欲しいとのメッセージ・カードを託されました。そこには和歌山県の多くの方々からのメッセージが書かれていました。私は着任後なるべく早くフレデリクスハウンを訪問したいと考え,昨年10月末に同市を訪問しました。短い訪問でしたが,ムラー・フレデリクスハウン市長,ペーダーセン・バングスボー博物館館長,クヌッセン機関長の甥であるムンクさん,姪であるアネリーセさん等々市の方々に温かく迎えられました。その後,私は当地日本人会のクリスマスパーティーやデンマークの方々とお会いする度にこの話をしています。機関長という高位にある方が,あの時危険をも顧みずに一命を賭してとっさに守ろうとしたものが何であったのか。それは,彼自身同じ厳しい海に生きる者としての共鳴か,或いは日本人への愛着か。実際,遺族の方から「ヨハネスは本当に日本が好きだったようね。」という言葉を聞いた時には胸が詰まる思いがしました。残念なことにこの美しい話は実はデンマーク人の間でもあまり知られていません。私は,今後クヌッセンさんの優しさと勇気ある行動を広めていくことが,彼の温かい心に対する恩返しであると思うのです。そしてデンマーク在住の日本人の方々,デンマークを訪れる日本人旅行者の皆様にもこの国の自然や歴史的建物の美しさだけでなく,デンマーク人が心の美しい国民であることを知ってもらいたいのです。