大使からの手紙 ヒューゴ・ホルバシュタット医師と日本刀のつば

令和3年2月26日
拝啓

   2月のデンマークは寒波に見舞われ、コペンハーゲンでも池や港が凍結し、近所の池の周りを散歩すれば、スケートに興じる親子の姿などを見て、冬らしい冬でありました。読者のみなさま、お元気にお過ごしでしょうか。そんな寒さの続く2月のある日、現在、内装改装のため休館中のデンマーク・デザイン美術館に、ひさびさにアン=ルイーズ・ソマーズ館長を訪ねて参りました。

   同美術館には、日本刀のつばの素晴らしいコレクションがあります。1943年、ナチス・ドイツの占領下にあったデンマークにおいて、ナチスによる迫害を恐れたユダヤ系デンマーク人医師のヒューゴ・ホルバシュタット(Hugo Halberstadt 1867-1945)氏が、1719点におよぶ江戸時代の日本刀のつばを同美術館に保管してもらうべく寄贈したところから、物語は始まります。1867年、コペンハーゲンで卸売業を営む家庭で生まれたホルバシュタット医師。訪日経験こそなかったそうですが、戦前より、日本刀のつばのデザインに魅せられて、欧州各地で開催されたオークションに足繁く通い1つまた1つと、つばの蒐集を進めました。新たな作品を購入するたびに、几帳面な文字で、漢字やスケッチも時折織り交ぜながら、作品の由来を書き溜めていきました。デザイン美術館には、その集大成である「ホルバシュタット・ノート」とも呼ばれるべき記録集も丁寧に保管されています。

 

 
      
   その後、大切なつばのコレクションをデザイン博物館に預けたホルバシュタット医師は、自らはナチスの手を逃れ、デンマークからスウェーデンに逃れました。シェラン島北部のギレライ港からのデンマーク人漁師にかくまわれての約300隻の漁船による6500人のユダヤ人の脱出ではなく、通常のルートで退避し、戦後もスウェーデンにとどまり、78歳でその生涯を終えました。

   戦時中のユダヤ人の逃避行といえば、日本人外交官杉原千畝氏による「命のビザ」が思い起こされます。リトアニア・カウナス駐在の日本の外交官が、数多くのユダヤ人家族にビザを発給し、彼らの欧州からの脱出を助けた行為です。今でも杉原サバイバーが世界各地で感謝の気持ちをもっておられます。今年の1月27日国際ホロコースト・デーには、茂木敏充外務大臣とガブリエリウス・ランズベルギス・リトアニア外相は、杉原千畝の行為を讃え、平和を願う共同寄稿をエルサレム・ポスト紙に発出しました。イスラエルのヤド・ヴァシェム(ホロコースト記念館)では、戦時中、奇しくもそれぞれの場所において、ユダヤ人救出に尽力したデンマーク国民と杉原千畝氏が、それぞれに「正義の人」として顕彰されています。

   今月、閉館中の美術館で、再会した刀のつばの前にたたずみながら思いました。「ホルバシュタット医師の善意と決断がなければ、これらのつばは今頃散逸してしまっていたのではないか。」と。今年は、1941年のドイツによるデンマーク占領から80周年。過酷な歴史の荒波を乗り越え、デザイン美術館の庇護の下に、最近6年間で5倍増となった同館への訪問者に、その姿を示してきた日本刀のつば。いつの日か、日本に一時的に里帰りして、もっと多くの人に見て頂ければと願います。

   それでは余寒の候、読者の皆様におかれましては、御自愛のほどお祈り申上げます。
 
 敬具
在デンマーク日本大使館
宮川 学













追伸

   2月は、デンマークでのCOVID-19変異株の増加を受け、規制措置が厳しくなり、対面での会談が制約を受けましたが、オンライン会合も含め、ハンセン・フレデリクスハウン市長(ヨハネス・クヌッセン機関長64周忌)、ラスムセン・ネストベズ市長(成田市友好都市)、アゲセン・フレデリクスベア市長、コリドン「ボーセン」紙(当地主要経済新聞)編集長兼CEO(元財務相),イエンセン・フェンシング協会会長、リーセヤ水泳連盟局長(前教育相)、ソマー・デザイン美術館長、国家警察幹部、外務省、気候エネルギー供給省幹部、当地各国大使等と両国交流の促進、国際情勢及び当地日本人の安全と安心の確保などについて意見交換を行いました。